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インサイダー取引が禁止される理由

金融商品取引所は、内閣総理大臣の認可を受けて、自主規制業務の全部または一部を自主規制法人に委託することができます(85条)。株式会社形態の金融商品取引所は、会社内に自主規制委員会を設置して、自主規制業務を委託することもできます(105条の4)。金融商品取引所は、自主規制法人や自主規制委員会に自主規制業務を委任しないこともできます。もっとも、金融商品取引所がその発行する有価証券を自市場へ上場するには、内閣総理大臣の承認が必要なところ(122~124条)、承認に当たって自主規制法人や自主規制委員会を設けているかどうかが審査の対象になるでしょう。。自主規制法人と自主規制委員会とを比べると自主規制法人のほうが取引所の市場運営機能からの独立性は高いのですが、先に述べた市場間競争の良い面での効果は、自主規制委員会のほうが発揮しやすいでしょう。自主規制委員は全員が有価証券市場の運営に責任をもつ取引所の取締役だからです。

金融商品取引所が開設している新興企業向け市場における取引の大部分は個人投資家によって行われています。しかし、新興企業が発行する有価証券はリスクが高いので、開示情報を判断する能力のある専門家が中心となって取引を行うのが本来の姿だと考えられます。ロンドン証券取引所は、機関投資家が取引の中心となる非上場証券のための市場(AIM)を1995年に開設し、AIMは新興企業の資金調達の場として成功しました。そこで、平成20年改正法は、成長過程にある企業の市場へのアクセスを容易にするために、金融商品取引法で導入されたプロ投資家の制度を用いて、金融商品取引所が法定の開示制度が適用されない自由度の高いプロ向け市場を開設できるようにしました。

現在、東京証券取引所が口ンドン証券取引所と合同でプロ向け市場を開設していますが、2010年末現在、上場企業は現れていません。プロ向け市場(法律の用語では「特定取引所金融商品市場」)とは、プロ投資家と一定の非居住者のみが有価証券を購入することのできる市場です(2条32項)。プロ向け証券(法律上の用語では「特定投資家向け有価証券」)の取引を、原則としてプロ向け市場で行わせ、一般投資家がプロ向け証券を取得して不測の損害を被らないようにしています(40条の4)。ただし、一般投資家もプロ向け証券をプロ向け市場で売却することはできます。ロンドン証券取引所のAIMでは、取引所が指定するアドバイザーが発行者の登録審査等を行っています。同様の仕組みをとることができるように、平成20年改正では、金融商品取引所がプロ向け市場における自主規制業務の一部を自主規制法人以外の者に委託できるようにしました(85条4項)。

プロ向け市場では、従来型の厳格なディスクロLンヤー(継続開示)は行われません。代わりに取引所が自主規制により、開示の様式、会計基準、開示に用いられる言語、開示の方法を定めて、発行者に継続的な情報の開示または提供を求めることになっています(27条の32)。プロ投資家には情報分析能力があるので、外国の会計基準、外国語による開示であっても適切な投資判断を下せると考えられたからです。そして、プロ向け市場の開示に虚偽があった場合については、民刑事の責任および課徴金を適用し、開示情報の正確性を法的に確保しています。これは、取引所の自主規制によるディスクロージャーを法律がバックアップするものであり、これまでにはなかった仕組みです。

プロ向け市場に上場しているか上場しようとする企業がプロ投資家から資金調達を行う場合にも、従来型のディスクロージャー(発行開示)は行われません。この目的を達成するために、特定投資家向け私募の制度が設けられました(2条3項2号)。ただし、ほかの私募のように開示が全く行われないのではなく、ここでも、取引所の自主規制による情報の開示が求められ(27条の31)、それを民刑事の責任・課徴金によりバックアップする仕組みが採用されています。インサイダー取引とは、会社経営者など未公開情報を入手できる地位にある者が未公開の重要情報を利用して行う証券取引をいい、日本では昭和63年(1988年)の証券取引法改正により禁止されるに至りました。

リベラリズムの限界

ここで問題となるのか、近代啓蒙主義に基づくリベラリズムにおいて、「宗教」がどのように位置付けられてきたのかという点である。近代社会は、いかにして宗教間の対立を回避し、互いの宗教的価値の相違を認め合うのかということに苦心してきた。このような問題に対して、世界を席巻した近代リベラリズムは、セキュラリズム(世俗主義)と相対主義という解決法を用意してきた。まず、リベラリスト達は、宗教間の対立を避けるために、宗教を「私の領域」に閉じ込め、「公の領域」にはそれを持ち込まないというセキュラリズムを普遍化しようとした。ここでは、宗教はあくまでも個人の内面の問題を解決する手段的道具とみなされ、それを追求するのは「私の領域」にのみ限定化された。そして、行政機構はもちろんのこと、市民社会の領域からも、宗教的価値は締め出された。つまり、宗教を「私の領域」に封じ込めることによって、「公の領域」からそれを排除し、そのことを通じて宗教的対立を回避しようとしたのである。

そもそも、近代啓蒙主義においては、理性によって世界を対象化し、それを正確に認識した上で、いかにコントロールするかというこ恚に重点かおかれてきた。そのため、「公の領域」においては合理性の追求か最優先され、「私の存在とは何なのか」という存在論的問いやそこから生ずる信仰の問題は、周縁的なものとされた。また、信仰の領域は、「非合理的」なるものとされたため、「合理性」の支配する「公の領域」においては、そもそもその対象外とされた。「公の領域」において、存在論的問いを追求することは、完全に放棄されたのである。その結果、「公の領域」は、機械的人間か計量化・数値化された利益を効率的に追い求めるシステム社会か覆い尽くした。マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、このような「脱呪術化」され、目的合理性のみが追求されるような官僚的近代社会を「鉄の檻」と表現し、その閉塞的な社会のあり方に対して強い警笛を鳴らした。宗教は本来、個々人の内面的な問題だけでなく、広く社会や政治についての包括的指針を与えるものである。

それが、近代啓蒙主義においては「公」「私」という二分法によって裁断され、一方の「私の領域」に閉じ込められた。これによって、「公の領域」は、宗教に基づいた価値の指針やモラルか排除された非宗教的領域へと変貌していったのである。さきで詳しく述べたように、このような近代啓蒙主義に基づく植民地支配をイギリスかインドにおいて行ない、さらに、そこで成立した植民地的構造を独立後のインド社会が継承していったために、「ウチ」と「ソト」の分断が構造化し、「公の領域」における「倫理の崩壊」現象か深刻化した。現代インドにおける宗教復興現象は、まさにこのような近代啓蒙主義によって植え付けられた近代システムに対する、根源的な批判を内包した思想的潮流として捉えるべきものである。また、近代啓蒙主義においては、「私の領域」に限定化された宗教に対して、相対主義の立場を推し進めてきた。他宗教との「分かち難い差異」を前提とした上で、お互いの宗教を認め合う、というものである。これは、他宗教に対する寛容な姿勢を示す一方で、「分かち難い差異」を他宗教との間に設定することによって、宗教間の価値の断絶を宣言することになった。この相対主義は、絶対的差異を有した他宗教を想定し、それとの差異を見出すことによって「自分は○○教徒とは違う**教徒である」という認識を形成するアイデンティティ装置へと転化しやすい。

インドにおいては、このような相対主義を基にして施行されたイギリスの分割統治か、宗教間の差異を顕在化させ、インド人の間の宗教的アイデンティティーポリティクスを強化していった。ヒンドゥー・ナショナリズムは、まさにこのような近代啓蒙主義に基礎付けられた相対主義によって、生み出されていったものといっても過言ではない。我々が、今、まさに行なわなければならないことは、近代啓蒙主義か立脚してきた「設計主義的合理主義」(ハイエク)に対して根源的な懐疑のまなざしを向け、それを支えてきた人間の理性に対する過信を捨て去ることである。近代という時代は、歴史上、人間が最も人間の理性を過信した時代と言っても過言ではない。我々は、理性的人間か世界を「正確に」認識し、それをコントロールすることかできるという幻想・妄想を放棄しなければならない。そこで、やはり注目しなければならないのは、世界中で勃興してきている宗教復興の潮流である。この宗教復興の潮流は、上記のような近代啓蒙主義に対する根源的な批判を内包している。しかし、我々はこのような宗教復興の潮流を、「原理主義」という安直なレベル貼りをすることによって、他者化しようとしている側面か強い。確かに、現代の世界的な宗教復興の動きには多くの問題が付きまとう。

先鋭化した宗教復興運動か多くの暴力を生み出し、犠牲者が生まれつづけている。しかし、だからといって、このような宗教復興の潮流を、リベラリズムの立場から一方的に批判し、彼らの主張を足蹴にするべきではない。我々は、このような宗教復興運動の発する重要なメッセージに真摯に耳を傾け、そこから、新たな時代を切り開く道を模索していかなければならない。現代インドは、「ダルマ」の概念をじっくりと見つめ直すことによって、現在、直面している近代の諸問題を乗り越える道を探ることかできると期待される。ただし、この「ダルマ」が現代インド社会において、即座に近代リベラリズムに取って代わるものとして機能するとは考えがたい。また、「ダルマ」の立場から、近代リベラリズムを全否定すべきでもない。民族的マイノリティーや女性、障害者などの社会的弱者に対する権利の保護など、近代リベラリズムか格闘し、その中で築き上げてきた価値の体系には、今後も有益なものか多くある。

ここで、我々か模索しなければならないことは、現代インドにおいて、この「ダルマ」の概念を基に、近代リベラリズムやデモクラシーの体系を新たなものへと組替えて行くことである。近代においては、信仰は内面的な問題のみを解決する手段として認識されてきたか、この「ダルマ」というものは、日常生活の諸行為にはじまり、地域共同体や市民社会における人間関係、さらには政治や経済の領域における諸問題などに対して全体的な指針を与える概念である。しかし、このような「ダルマ」の思想は、前述のように、イギリスの植民地統治と独立後のインド政府が基軸にしたセキュラリズムによって、その包括性を分断された。現代インドは、このような分断された「ダルマ」の包括性を回復し、「ダルマ」の視点から、近代リベラリズムの抱え込んだ問題に修正を加えていくことか望まれる。そして、このような「ダルマ」の復興という問題は、何もインド社会だけに限られた問題ではない。冷戦崩壊以降、世界各地において急速に拡大化している宗教復興の流れは、インドのこのような問題と軌を一にするものである。

プロレタリア階級と共産党との関係

ボナパルト体制を見ると、ブルジョワ的議会制民主主義の方が、議会での議論の過程を通じて、党組織の民主化を忍耐強く実現していったことがわかります。つまり、共産党がプロレタリアの意思を実現すべく政治を執り行おうにも、自ら政党としての民主化が図られていない限り、それは暴力を背景にした独裁体制に帰着せざるをえないのです。マルクスは『共産党宣言』の第二章で、共産党とは何かについて触れています。そもそも彼は共産主義者同盟の綱領として同書を執筆したのですが、当の共産主義者同盟は、その名の通り、あくまでも共産主義者の組織にすぎません。それ自体が、議会制民主主義の党を目的としたものではないのです。とはいえ、彼らがプロレタリア階級の前衛としての共産主義者であった点においては、自ら共産党と名乗ってもおかしくはありません。なぜなら、彼らはわずか五〇〇人ばかりの組織でしたが、労働者の前衛としての地位をすでに確保していたからです。

ここで共産主義者について考えてみると、彼らはプロレタリア階級の中にあって、新しい社会が必然的に生まれるということに確信をもっている人々です。確信をもつという点で、共産主義者は前衛であり、その限りにおいてプロレタリア階級を指導することができます。そして共産主義者同盟は、すでに前衛としての共産党という自覚をもっており、それがために、共産主義者同盟の宣言は、「共産主義者宣言」ではなく、あえて「共産党宣言」とつけられたのでしょう。もちろん、当時の歴史的状況から見る限り、『共産党宣言』の共産党は、まだ政治結社とは言えず、あくまでも前衛という程度にすぎませんでした。それでもあえて共産党の名前を使ったのは、共産主義者であることを自覚するためだったと思われます。だから、マルクスとエングルスは、一八七二年に第二版を刊行した際、『共産主義者宣言』という当時の実状に沿った現実的な表現に変えたわけです。『共産党宣言』の中で、マルクスが重要視しているのは、共産主義者であって、共産党ではありません。同書に出てくる共産主義者像は、国籍を超えた存在で、共産主義の未来について確信はしているのですが、けっしてプロの政治家ではないのです。

そして同書の記述自体は、全編を通してプロレタリア階級に比重が置かれています。プロレタリア階級の発生とその使命について語ることに、ほとんどのページが割かれているのです。プロレタリア階級については、およそ以下のような説明がなされています。資本主義生産においては、階級は二つ、すなわちブルジョワ階級とプロレタリア階級に分かれる。しかも、その両極分解はどんどん進み、競争と独占によって中小の資本家はプロレタリア階級に零落、人口の大半がプロレタリア階級になる。プロレタリア階級は、やがて圧倒的多数の人口を擁することで、ブルジョワ階級を墓穴に追い込むことになるだろう、と。ここで重要なのは、共産党とプロレタリア階級との関係です。他の政党と共産党はどこが違うのか、それはただ一つ、すなわち共産党が自国の枠組を超えているという点です。つまり、自国のプロレタリア階級の利害に関心をもつと同時に、世界のプロレタリア階級にも関心を持たなければならない。なぜなら、共産党は世界のプロレタリア階級の前衛であり、プロレタリア階級に国家を超えた連帯を持たせる必要があるからです。

またマルクスは『共産党宣言』の中で、共産党はプロレタリア階級を指導したり、鋳型にはめたりするようなことはしない、という意味のことを言っています。これを言い換えれば、共産党はプロレタリア階級を指導し、彼らの上に立つ特別な組織ではなく、プロレタリア階級の中で人一倍共産主義の実現を確信している人々の組織にすぎないというわけです。とすれば、共産党はプロレタリア階級の中から選ばれた人々の組織ではない、ということになります。共産主義を確信できる者は少数で、必然的に共産主義者自体が少数なのですが、だからといって、彼らが特別な立場にあるわけではありません。では、共産党がプロレタリア階級を指導する特別な政党ではないとすれば、なぜ共産党は前衛としてプロレタリア階級を率いる強力な組織となったのでしょうか。『共産党宣言』を読む限り、この問いに対する答は出てきません。党の力よりも、むしろプロレタリア階級そのものの力によって新しい社会が出現する可能性の方が大きいということを、マルクスは言いたかったのかもしれません。共産党がプロレタリア階級の心情を共有するとしても、共産党が、プロレタリア階級そのものではないことは明らかです。

また共産党が、共産主義社会の実現を確信する人々の集団であるとしても、それだけならば、単にプロレタリア階級の票を集めて政治活動を行う組織にすぎません。しかし、議会制民主主義における政党の多くが、単に自党や支持者の利害を代表する組織に過ぎない一方で、共産党は共産主義を実現していくという、ある意味預言者としての使命をもっています。それはなぜでしょうか。それを理解するために、『旧約聖書』のアブラハムの話を思い出してみてください。アブラハムは神から、唯一「選ばれた民」としての使命を受けました。このアブラハムの子孫がユダヤ人です。しかし、ユダヤ人が「選ばれた民」であるからといって、彼らのすべてが「エデンの園」に行けるわけではありません。それどころかユダヤの人々は、厳しい弾圧を受け、辛酸を凪めながら、すべての民を「エデンの園」に連れていく責任を負わされた存在に過ぎなかったのです。『旧約聖書』を読む限り、彼らは神のお告げを他の民に先んじて耳にし、しかし、そうであるがゆえに苦しみを受けながら、未来の世界へと進んで行く人々でした。

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