記事一覧

必要悪としての娼婦

かれらは娼婦をはじめとする俗塵にまみれた女性を前に、神の慈悲を教え、賄罪を説いた。そしてそれだけではなく、たとえば燃えている薪を自らのからだに押しあて、それに平然と耐えて、彼女らに禁欲の意志のつよさと神の恩寵を明示したりもした。そして、このような努力で世俗の生活から引き離した女性たちのために、各地に修道院を建てたのも隠修士の功績であった。十一世紀から十二世紀初頭という早い時期に、隠修士が女性の魂の救いを真剣に考えたことは画期的であった。

さて、隠修士の慈愛の最大の対象であった娼婦たちは、教会に依拠すればその悪の道から離れることができた。その道には二叉ある。まず彼女たちが修道女となること。おそくとも十二世紀からは、改心した娼婦のため、その更生を期してあらだな修道院が次々と建てられはじめた。また、二一二四年には、改心した娼婦のために、特別の修道会を創設する努力が始まり、三年後には教皇グレゴリウス九世が、「マグダラのマリアの館」にたいして教会の最高の認可をあたえた。これら白衣の修道女たちは、世俗の君主の支援をも得て、以後、十四世紀にかけて各地の多くの都市にひろがってゆく。

修道女とならずに更生する第二の道は、結婚することであった。インノケンティウス三世(在位一一九八-一二二六年)などの教皇は、改悛した娼婦と彼女の更生のために結婚する男を称揚し、そのおこないは小さからぬ善行だとした。が、より慎重で懐疑的な教会法学者もすくなからずいた、とつけ加えておこう。十二世紀イタリアのグラチアヌスをはじめとする教会法学者によると、娼婦とは、金銭や他の報償をみかえりに多くの男の欲望をみたすため。無差別に、おおっぴらに性関係をもつ女性をさす。教会は、聖書や自然法やローマ法をよりどころに、ためらわず彼女らを断罪する。それは、道徳的にも神学的にも忌まわしく排斥すべきものだと。

しかし、このように原則的にはきびしく禁止しても、実際上は大目にみるというような矛盾した態度を、教会はとらざるをえなかった。社会秩序を混乱させず犯罪や害悪がはびこらないようにするための安全弁として、娼婦の必要性をみとめたのである。この認識の仕方は、すでにアウグスチヌスにさかのぼる。かれは不完全な世界に必然的に付随する社会的必要悪として、娼婦の存在をみとめたのである。多くの神学者が、アウグスチヌスの理論をより押しすすめ、理想的娼婦の姿を俎上にのぼせた。娼婦は社会秩序や霊的秩序をみだすどころか、それを安定させるとかれらは主張する。

公共の福祉のために必要な娼婦。しかし彼女らの法的・社会的地位は低かった。そしてヨーロッパ中に散在していた娼婦を他の女性だちから区別するために、教会は、特別の衣服や標をつけることを考え、都市当局は特定区域への集中隔離(赤線地区の設定)や公認売春宿の設立策をこころみた。売春宿は、都市の役人によって監督され。都市条例によって運営・規制された。けれども、パリなどの主要都市では娼婦のギルドもあったというから、かならずしも彼女たちの権利がすべて剥奪されていたわけではない。しかも、場合によってはおおきな社会的影響力ももちえた。そしてその社会的影響力に目をつけた都市当局や国王は、自らの利益になるように娼婦をとりこもうとしていったのである。

米国経済団体会合での日本政府高官のスピーチ

一九七一年。私かアメリカの高校に留学していた年、米国では企業活動による環境破壊の危険性が叫ばれ、石油会社による政治献金が問題視されていました。アメリカの高校で私は(USガバンメントGovernment)」という米国の政治システムについてのクラスを取っていました。問題意識旺盛で感受性あふれるクラスメートたちが初老の先生を相手に厳しい質問を浴びせます。アメリカはベトナム戦争をしていて徴兵制が敷かれていました。

「これだけ政治献金をもらうと政治家はどうしても石油会社寄りの政治をしてしまうのではないか」生徒のこうした質問に対して先生はこう答えていました。「たしかにそうかもしれない。しかし、それほどまでの大金を払ってでも石油会社が実現をしたいことがあるのであれば、民主主義の世界では、それはそれで一つの大きな意見としてカウントせざるをえない。

民主主義は完璧ではないし、最良の政治システムではないかもしれない。賢者による君主主義のほうが衆愚政治より上手く機能することもあるかもしれない。しかし長い目で見れば結局は民主主義のほうが優れたシステムなんだ。民主主義に代わるシステムは今のところ見つからない。われわれは大きな犠牲を払ってこのシステムを手に入れたんだ」

民主主義と同じように資本主義や市場主義も万全ではありません。時として他のシステムのほうがより優れていると見えることもあります。日本の官僚調整型経済システムがひじょうに上手く機能していた一九八〇年代。私は日本の銀行の駐在員として米国シカゴに駐在していました。シカゴには「エコノミック・クラブ」という経済団体がありました。地元企業の会長クラスの人たちがメンバーで、私も地元有力弁護士の紹介で会員にしてもらっていました。「エコノミック・クラブ」では定期的に昼食時に会合を持ち、当時のベイカー財務長官など第一線で働く政治家や学者をゲストスピーカーとして招いていました。

この会合に日本の通産省(現在の経産省)の高官がスピーカーとして招かれたことがあります。日本の産業政策と題して、日本型システムがいかに有効に機能してきたかを説明していました。「日本では、メインバンクや政府系金融機関の協力を得て、企業は大規模な設備投資を行なうことができる。株式は持ち合いで保護され乗っ取りの心配もない。国民は高い貯蓄率を維持し、終身雇用制のため従業員の忠誠心は旺盛だ。全国各地には工学系の大学が存在し労働の質は高く効率的な生産体制が敷かれている」

人間の知恵から生まれた制度

わが国の損害保険会社は約二五社(一九九三年度末現在)にしかすぎないから、それらの会社がいかに大量の事故を処理しなければならないかは想像に難くない。これだけの事故を処理しようとすれば。いきおいそれは機械的にならざるをえないだろう。人間はそれぞれ他の人々にはない「個性」を持っているからこそ「人間」なのだが、事故に遭遇した人を「人間」として扱うことは保険会社の処理能力をはるかに超えている。したがって、山積された事故を早急に処理しようとすれば。被害者を「人間」としてではなく、没個性的で抽象的な「ヒト」として扱わざるをえなくなる。これは昭和四〇年代の高度成長が、規格化された製品の大量生産と大量消費とによって支えられていたのと軌を同じくする現象だと言ってょい。

同一の部品をベルトコンベヤーで運ぶことで生産過程の標準化が行われ、それによって規格化された生産物が大量に生産され、社会がそれを消費したからこそ、高度成長は可能になった。テレビに代表される電気製品がそうであり、高度成長のシンボルである乗用車もまた、大量生産・大量消費の代表である。これと同じように、損害保険会社の業務は被害者を規格化し、事故の処理をいわば大量に生産することによって成立している。交通事故をベルトコンベヤーに乗せて流れ作業で処理し、社会がそれを受け入れることによって、頻発する事故ははじめて処理されるのである。しかしチャップリンの名作『モダンータイムス』がいみじくも示唆したように、このような大量生産のプロセスは、それに携わる人間までをもベルトコンベヤーの流れの中に巻き込み、その人間性を奪ってしまう。自動車保険の場合で言えば、賠償交渉にあたる人が事故に対する心の痛みを持たず、交渉を純粋な商取引にしてしまうということである。

「噴い」を「購い」にしてしまうということである。そのことが肉親を奪われた者にとっていかに苛酷なことなのかを、大量生産に麻蝉した人は考えないし、考えようともしない。考えていてはその業務が成立しないからである。しかし、直接の賠償交渉で「擦れ違い」が不可避だという問題の本質は、保険会社よりも自動車保険という制度そのものにあるように思われる。よく考えてみると。このような奇妙なシステムが存在すること自体、疑問に思われるからである。保険とは何なのだろうか。『岩波国語辞典』(第五版)では「火災・死亡・病気等の偶然の事故による損害を補償するため、多数者が一定の資金(=保険料)を出し合い、実際に事故があった時その者に一定金額(=保険金)を与える制度」だとされている。この説明で肝要なのは「偶然の事故」という言葉だろう。

偶然というのは「他のものとの因果関係がはっきりせず、予期できないような仕方で物事が起こること」だから、保険とは自分たちの力では避けることのできない災難がもたらす損失を特定の人だけに負わせるのではなく、多数の人々で分担しようという人間の知恵から生まれた制度だということになる。危険の分散である。生命保険や海上保険のことを考えれば、保険がこのように定義された制度だということはよく分かる。不幸にも若くして生命を失った人、不運にも台風に遭遇して船荷を失った人、そのような人の受けた損失を、幸いにも同種の災難から逃れた人々が共同で負担する、というのが生命保険であり海上保険だからである。死や台風というのは人間の意志や努力では避けることのできない「偶然の事故」だから、それに遭遇する危険を分散しようというわけである。

ユダヤ人への賠償

アンネ・フランクはハノーバーから車で30分ほど行ったところにあるベルゲン・ベルゼン強制収容所で亡くなった。遺骨は特定されていないが、小さな碑が建てられている。同収容所には当時の建物はほとんど残っておらず、広々とした敷地のところどころに建物跡という説明の看板が立っているだけ。現在は周囲を森に囲まれ、草原が広がり美しい。以前ここで残酷なことが繰り広げられたとは、想像しがたいほどのどかである。このように、強制収容所は負の遺産として各地で保存され、無料開放されている。ナチスドイツを率いたヒトラーは1945年4月30日、自殺を選んだ。敗戦後、米英仏ソの4力国が駐屯するなか、戦争の罪をすべてナチスにかぶせることで、ドイツ社会は再生への早道を探った。悪かったのはナチスだけで、国民も軍も悪くなかったとの論理だ。ドイツ政府としても、国際社会で承認されるためには、ナチスの罪を徹底的に暴き、原因を究明することが不可欠だった。

宿敵だったフランスと和解し、一緒に欧州連合を作ったのもその一例だ。またナチス党の台頭を教訓に5%条項を設け、選挙で得票率5%以下の党は政権入りできないこととした。ネオナチなどの党が政権入りを通して支持を広げることを防ぐためだ。しかしドイツがいくら、戦時中の行いを「ナチス幹部のせい」にしても、対外的にはドイツという国が侵略戦争を行いホロコーストを引き起こした事実は変わらない。次に求められたのは、ユダヤ人への賠償だった。1952年にアデナウアー首相がルクセンブルク条約を調印し、イス・フェルに30億マルク(約1800億円〈1マルク60円で計算〉)ナチスの犠牲となったユダヤ人の補償請求を代表して行う「対独賠償要求ユダヤ人会議」に4億5000万マルク(約270億円)を支払うことで合意。ユダヤ人のイス・フェル移住も支援した。

1970年からはイス・フェルとドイツの各都市間で、姉妹提携や友好協会が生まれ、イスラエルに移住したユダヤ人が再びドイツを訪問しやすくした。加えてドイツ政府や自治体は、ユダヤ協会に対して政治的財政的支援を保証した。1998年にアメリカでナチス時代の強制労働に対する集団訴訟が起こると、これをきっかけに政府は「記憶・責任・未来基金」を設立。国と産業界が半々で計100億マルク(約6000億円)出資し、ユダヤ人をけじめ東欧や旧ソ連地域の強制労働者に補償を行なうこととなった。しかしこの基金についてハンブルグ学問文化支援財団の歴史家ライナー・プレーベに聞くと、「ユダヤロビーの圧力に屈し、自社のグローバル展開に必要だからという理由で多くの企業が参加したもの」との見方が返ってきた。

強制労働に従事させられたことを文書で証明でき、実際に申請した人のみに補償が行われ、人種や帰属グループによって段階に分けられていた。ユダヤ人に対してが一番手厚く、イタリア人や旧ソ連人の強制労働者や捕虜に対しては物足りない印象を与える。戦後からのこうした交渉過程で力をつけてきたのが、ユダヤ人団体だ。1950年には総本部としてユダヤ中央委員会が設立された。いまはドイツ各都市にユダヤ協会、州本部がある。現在、会員総数は10万5000人にのぼる。会員でない人もいるため、ドイツ全体ではユダヤ人は20万人といわれている。ベルリンの壁が崩壊した1989年以降、東欧からのユダヤ人を多く受け入れたため一時期よりは増えた。

街を歩いていると、ユダヤ人教会はもちろん、ユダヤ人の老人ホームでも警察が警護しているのに気がつく。年をとってもドイツ人とは絶対にかかわりたくないという人がいるのか、あるいは政府がネオナチを警戒してのことなのかと、その度に考えさせられる。こうした措置に、物言いがつくことはない。前述の通り今でも、ナチス擁護は最大のタブーである。特に政治家や公的な立場にある人物の発言であれば、仕事を追われることもある。近年でもこんな騒動があった。著名な女性司会者のエファ・ヘルマンは、2006年にエッセイ『エファの信条』を出版。1968年にこの国で起きた女性解放運動が不適切な女性の役割を押し付けたため出生率が下がり、ドイツ国家が死に絶える危機に瀕していると書いた。

市場デリバティブ取引

有価証券のペーパーレス化のための法制の整備は、コマーシャルペーパー(CP)、国債・社債、株式・新株予約権付社債券の順に進みました。平成21年1月には、上場株式の振替制度への移行が一斉に行われました。俗にいう株券の電子化です。新株予約権や新株予約権付社債については、振替制度を利用するかどうかを発行者が決定します。振替制度において株式を譲渡するには、投資家は、金融商品取引業者等の口座管理機関に口座を開設しておかなければなりません。そして、譲渡側の投資家が振替の申請をすると、その投資家の振替口座簿に株式数の減少の記録が、譲受側の投資家の振替口座簿に株式数の増加の記録がなされます。これにより、譲受側の投資家は株式という権利を取得したことになります。

もっとも、売買注文の約定が取引所または証券会社等を通じて行われることに変わりはありません。上場会社が新たに有価証券を発行する場合は、投資家からの払込みを確認した上場会社からの通知により、口座管理機関が投資家の振替口座簿に株式の銘柄および数を記入し、これにより、投資家は株式を取得します。以上のように、電子証券の振替を行うために口座の開設を受けて振替を行う行為を、金融商品取引法は金融商品取引業を構成する行為と位置づけ(2条8項17号)、口座管理機関の振替業務を有価証券等管理業務として規制しています。

デリバティブ取引のうち取引所の定める基準・方法に従い取引所市場で行うものを市場デリバティブ取引といいます。日本における市場デリバティブ取引は、証券取引所における債券先物取引が昭和60年(1985年)に認められたときから始まりました。その後、昭和63年(1988年)の法改正により、有価証券の先物・オプション取引は証券取引所で行い、通貨・金利等の先物・オプション取引については、金融先物取引法を制定し、金融先物取引所で行うという分業体制が出来上がりました。

金融商品取引法は、証券取引所と金融先物取引所を金融商品取引所として同一に扱うことにしましたので、有価証券関連のデリバティブ取引もそれ以外の金融先物取引も、金融商品取引所ですることができるようになりました。デリバティブを市場に上場すると一般投資家もデリバティブ取引に参加することになります。他方、デリバティブ取引についてはディスクロージャー制度がありませんので、投資家は自ら情報を収集して投資決定を行わなければなりません。そこで従来は、デリバティブの上場については内閣総理大臣の承認制がとられていましたが、金融商品取引法では、制度の横断化と規制緩和の観点から、デリバティブの上場についても原則として事前届出制を採用しています(121条)。

市場におけるデリバティブ取引の参加者および顧客からの注文の受託については、1および2節で述べたところが当てはまります。店頭デリバティブ取引金融商品市場によらない店頭デリバティブ取引は相対で行われるため、通常、取引当事者は取引相手の信用リスクを把握しているはずです。しかし、2008年秋の世界的な金融危機においては、欧米の金融機関が膨大な店頭デリバティブ取引を行っており、相手方の情報を適切に管理できなかったことから、個別の金融機関に破綻の懸念が生じると、相手方の信用リスク(カウンター・パーティー・リスク)が顕在化し、金融機関の連鎖破綻が懸念されました。そこで、国際的な合意に基づき、店頭デリバティブが成立した場合に清算機関が取引当事者の間に入り、取引当事者は清算機関との間でデリバティブ取引の決済を行うという清算集中が図られることになりました。