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東大細胞の指導部から嫌われる

翌五四年は、それがいわゆる「総点検運動」となって共産党をかけめぐる。東大文学部の地下にあった全学連および都学連の書記局でも査問が頻発した。時間にルーズだ、金遣いがあらい、女性関係がだらしないといったような個人的問題をめぐって開始されるスパイ摘発合戦にどう耐えたのか、森田は多くを語らないが、ともかく彼はこの隠微な相克をやりすごしたらしい。それでも秋に、あのタフな森田が胃潰瘍になって三ヵ月のあいだ入院したということであるから、相当に神経を消耗させる事態であったようだ。翌年には東大にもどるが、そこでも森田弾劾の声があがる。なんとかそれも退け、工学部の実習で常磐炭鉱にいっていた七月、六全協が開かれ、党中央が内部分裂と極左方針を自己批判する。つづいて開催された都細胞代表者会議では森田は克明なメモをとり、それを東大にもちかえって報告した。六全協ショックが波をうってひろがっているあいだに、彼は新聞・雑誌をよみあさり、国内の政治情勢の焦点がどこにあるかを探った。そして小選挙区制、教育三法そして核実験に反対するという行動方針を打ち出す。

五六年の春には、島と森田が中心になって全学連が再建され、その秋には砂川闘争へと突入していくのである。こうした過程を眺めているうちに浮んでくるのは、森田という人間の明るく機敏な行動力である。すでにみたように、彼は中学のときからマルクス的の文献にふれているのではあるが、その種の早熟な人間にありがちの陰謀家めいた小賢しさが彼にはみじんもない。森田は大学に入るまで民青経験をもっていないのであって、父親の大工仕事や母親の百姓仕事を助ける勉強好きの野球少年、それが彼の少年像である。実際彼は、大学入学の直後に東大野球部から勧誘され、それに気をよくして神宮に野球の応援をしにいったのだという。ところが、そこでなけなしの財産である五千円をすられ、あちこち頭を下げてまわるが誰も金を貸してくれず、それで「社会というものに頭にきて、学生デモに衝動的に参加したんだが、体がでかいというのも考えもんで、雨の中で警官を投げとばしたりしているうち、こぶはできるわ、打身だらけになるわ、たっぷり刺激をうけ、そのまま左翼路線にまっしぐらさ」。中支で九歳年上の長兄が戦死し、それを切掛にして母親が病床につくのをみていた、というような少年時代から徐々に蓄積されていた反戦感情が、一挙に爆発したのであろう。

森田はその高い政治手腕のたちに策謀家とみなされることが多いのだが、それは掛値なしにいって、低い政治手腕しかもたぬ人間たちにありがちの嫉妬まじりの恐れからくるものである。私のみた森田には、しばしばびっくりさせられるような、ナイーヴァティがある。島成郎も「森田というのは、人が悪そうにみえるけど、本当は人のいい奴で、自分から戦争を仕掛けたことがない」といっている。星宮煥生も認めている、「森田君には浪花節的な面があって、いつも相手の気をくもうとしていた。後の世代からみると、オポチュニストで妥協的と映ったらしいがねえ」。こんな森田がブント形成の途中で排除されていく。もっとも森田自身によれば「その後悪いことができなくなってしまい、身を守ることができたという意味で、今は、このことについて感謝しなければいけないのかもしれません」(『戦後左翼の秘密』)ということであるが。森田の手腕が最高度に示されたのは砂川闘争であった。そのころ私は北海道の高校生であったから、臨場感はないのだが、ともかく森田の辣腕は旧左翼の政治プロをも驚かすものであったらしい。

ほとんど個人プレーのようにして、学生を砂川に送りこみ、そのつど発生する混乱を新たな煽動の材料にして、結局、砂川は森田の勝利に終り、本人いわく「笑い話だが、ぼくはプロ野球の優勝監督のように、胴上げされた」のである。しかしそのために、共産党中央と結びついた高野秀夫全学連書記長らが闇討ちのようにして森田を平和部長から解任しようとする。そのいがみ合いは、今でも語り草になっているほどの、当時の表現でいえば、ムサイもののようであった。それに勝ち抜いた森田には、次に革共同関西派からの追い落しがかけられ、森田は国家権力のスパイだとか右翼とつながっているなどとひどいデマが全国でとばされたりという状況になる。さらに「東大的体質(観念的で街学的な事大主義的体質)にこり固った東大細胞の指導部から嫌われ」たこともあって、(オレの立場は落ち目の三度笠だよなどと冗談を言う」はかない破目に陥っていく。

しかしそれでも森田の頑張りはつづいて、五八年の六月は共産党本部に全学連執行部をひきつれて押しかけ、「共産党中央委員全員の罷免決議」などという暴挙をやらかして、共産党から除名される。除名の後も、夏の勤評闘争、秋の警職法闘争というふうに、彼のアジとオルグは、一種、壮絶の度合をつよめて継続される。だが、トロツキズムの観念が脹らむ転換期にあって、森田のような実権派は不要である。一二月一〇日のブント結成に名をつらねはするものの、冷や飯を喰わされるのはもう眼にみえている。翌年一一月二七日の国会突入事件で、大衆運動家としての稀代の力量の最後の片鱗をみせて、彼の八年間におよぶ確執と煽動は終止を迎える。ブントも脱退し、森田はまったく敗残の将となって私たちの前からいなくなった。その後の半年間も、島や唐牛や清水の要請に応じてブントの相談役めいたこともやったらしいが、それは森田の獅子吼の単なる残響のようなものであろう。

物語消費の構造

〈物語〉が具体的な共同体とセットになっており、しかもそれが一つであれば選択すべき〈物語〉は少数で済む。娯楽としての〈物語〉も当然必要とされるが、既に〈物語〉を通じて具体的な共同体に帰属している人とそうでない人では〈物語〉に対する飢餓感は当然、異なる。この消費社会では、人が具体的な共同体に強く縛られることを良しとしない倫理が戦前への反省から存在している。また既に述べたように〈物語〉と〈共同体〉の分離も達成されているから〈物語ソフト〉をいくら消費してもその消費していく時間のみは〈物語〉にひたれる。しかしそれだけの話である。〈物語〉への飢餓感は社会に縛られる(抱かれる、と言い換えてもよい)あるいは縛ってくれる社会の存在を明らかにすることであるから〈共同体〉と切り離された〈物語ソフト〉をいくら消費してもその飢餓感は決して満たされない。〈物語〉への過剰のニーズは〈物語〉と〈共同体〉の分離の結果起きたのであり、この決して満たされない仕掛けからなる〈物語〉への飢えが〈物語ソフト〉の複製や流通の技術の進歩と結びついて(あるいはそれを半ば促して)今日の、個人の消費のキャパシティをはるかに超える量の〈物語ソフト〉の氾濫という事態を生んだのである。

ぼくが〈物語消費〉と呼ぶ消費行動は、このような〈物語〉と〈共同体〉の分離に端を発する飢餓感が、パッケージされた〈物語ソフト〉ではもはや消費者が満たされないことを消費者自身が察知することで顕在化する。『物語消費論』(新曜社)で「ビックリマンチョコ」の分析を通じて抽出した〈物語消費〉とは、したがって〈物語ソフト〉を消費することではない。〈物語ソフト〉を消費の対象とすることが大衆化するのは近代社会もしくは都市空間に普遍的な現象である。〈物語消費〉とは〈物語〉への都市住民あるいは現代人の飢えをその動機としている点では〈物語ソフト〉の消費と一致するがしかし、〈物語ソフト〉を一次的な消費の対象としない点で異なる。その仕掛けの詳細は『物語消費論』や本書に収録した「ビックリマンと天皇制」に何度も書いたので割愛するが、「ビックリマンチョコ」における〈物語消費〉とは、ロッテという企業があらかじめ用意したビックリマン神話とでも呼ば恥惣擬似的な神話の体系(それは比喩ではなく事実、日本神話の体系に近い規模と内容から成る)の中で、シールに印刷された神話の構成員たる個々のキャラクター及びその裏の印刷に微分化された情報を手がかりに消費者である子供たちが「ビックリマン」のストーリーを再構成する行為を指す。

彼らは〈物語〉の断片を手がかりにその全体像が示されていない〈物語〉を擬似的に創作しているのであって完成品である〈物語ソフト〉を一方的に送りつけられ単なる受け手として消費しているわけではない。また重要なのはここでは〈物語ソフト〉が商品にはなっておらず、商品はあくまでもズ物語〉の断片としての情報を印刷したシールをおまけにつけたチョコレートである。消費者はチョコレートを買えば買うほどより多くの〈物語〉を擬似創作ができ、しかもそれを繰り返せば繰り返すほど企業の用意した〈神話の体系〉にとり込まれていく。〈物語〉がチョコレートというモノを消費するための動機付けとなっているわけだ。ここから電通マーケティング局ディレクターの福田敏彦らによって提唱される『物語マーケティング』(竹内書店新社)という考え方も出てくることになる。さてここで改めて簡単に要約しておけば〈物語消費〉とは次のような特徴を持つ。〈物語ソフト〉ではなくモノないしはサービスが消費の直接あるいは見せかけの対象となる。そのモノ及びサービスは〈物語〉によって秩序付けられるかあるいは秩序付けられるべく方向が与えられている。消費者は消費行動を通じて〈物語〉を擬似的に創作するか体験ないしは演じる。

それでは〈物語ソフト〉の消費と〈物語消費〉ではその消費行動の持つ意味あいはどう異なるのか。かつて『物語消費論』の中で〈物語消費〉の枠組みを〈世界〉と〈趣向〉というキーワードによって説明したことがある。〈世界〉と〈趣向〉は歌舞伎用語であり、江戸時代の中ごろからさかんに使われるようになった。服部幸雄(『歌舞伎のキーワード』岩波書店)によれば「世界」とは「一編の長い狂言が舞台の上で繰り広げられる時、その虚構の物語世界、その芝居が作り上げる全宇宙の枠組みを指す」ものである。例えば「義経記の世界」「曽我物語の世界」と表現される〈世界〉とはこれらの作品が繰り返し上演され親しまれることで送り手と受け手の間にこれら〈物語〉の「背景になる時代、事件(ストーリー)、登場人物の名前(役名)とその基本的な性格・立場・行動の型などすべての面にわたり、大幅な改変を許さない、作劇上の前提としてあらかじめ存在する枠組み」として共有されたものをいう。一本の起承転結から成る具体的な〈物語ソフト〉(この場合は個々の戯曲及び上演)ではなく、それが生成する場を〈世界〉と言う。

だから例えば「仮名手本忠臣蔵」というソフトであれば「太平記の世界」で繰り広げられる〈物語〉である。「仮名手本」では浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は高師直として登場する。塩冶判官や高師直は「太平記」の時代背景や人間関係を実際に起きた内匠頭刃傷事件のてんまつを持ち込みあてはめることで作られた〈物語〉である。したがって同じ事件を「小栗照手の世界」で展開した「鬼鹿毛無佐志鐙」という狂言も存在する。また反対に「太平記の世界」を枠組みとした〈物語〉では「後醍醐天皇隠岐の配所」や、由井正雪の事件を「太平記の世界」に置いた「太平記菊水之巻」などの作品もある。これらの〈世界〉の中で創案される個々の〈物語〉を歌舞伎では〈趣向〉という。一つの〈世界〉を横切る一本の線が〈趣向〉であり、理論上は無数の〈物語〉が生成する。また同一の物語の形態であってもそれが成立する〈世界〉によっては全く異なる〈物語ソフト〉になる。

逆接的民主主義-民主主義の否定こそ本義

それゆえ、こう結論できる。裏切りを孕んだ愛こそが、われわれが求めていた普遍的な連帯を導く可能性を有しているのではないか。公共圏と交響圏は、同じものでもなければ、異なるものでもない。交響圏を構成する、共同性を内へと凝縮させる力には、それと背馳する別のベクトルの力が伴っている。一方に、特定の他者へと志向する、特定の他者を愛そうとする力がある。だが、他方で、同時に、不定の他者への、〈無としての他者〉への志向が作用している。この後者の志向によってこそ、普遍的な公共圏を構成することができるのではないか。しかし、それは、どのような政治の形態を要請するのだろうか。ここで、ヒントになるのが、先に考察した二つの事例「沖縄の少女」と「キリスト」の事例である。彼らが、普遍的な公共性の触媒となりえたのは、なぜだろうか?彼らは、共同体の秩序の中に内在的な位置づけをもたない、排除された特異点であった。たとえば、沖縄の少女の場合を考えてみよう。

第一に、女性への暴力が基地問題として公認されてはこなかった(排除)。第二に、レイプは、他者からの同情や理解を徹底的に拒む、個人の内的な核への冒涜である(特異性)。盗賊だちと交じって、苦しみと悩みの内に殺された惨めなキリストの姿もまた、共同体の秩序から排除された特異性を表現している。彼らは、共同体の階層序列の底辺ということですらなく、その内部で位置づけられない排除された一点である。このような排除された特異点だけが、〈無としての他者〉を直接に具体化することができる。それは、本性上、どのような特殊化された限定をも受け付けることがない、何者でもないというほかないからである。普遍的な公共性は、人々が、排除された特異点と関係し、これと同一化することで果たされる。普遍性は、人々がすべての交響圏が、彼らから排除された特異性と関係する仕方の内にあるのだ。排除された特異点は、交響圏を結束する関係(愛の関係)の様式に随伴する、その関係の裏面を、純粋状態で抽出し、公共的な普遍性へとつなぐ回路を開くのである。

こうした考察が示唆するのは、逆説的な形式の民主主義である。一般には、民主主義とは、多様な利害のある種の集計であり、それらの間の「平均」や「妥協点」を見出す意思決定の方法であると考えられている。つまり、そうした「平均」や「妥協点」を、全成員の意思の普遍化された代表と見なす方法が民主主義である。それに対して、以上の考察が示唆するのは、これとはまったく逆の、言わば反転した民主主義である。すなわち、制度化ざれた社会秩序の中で位置づけをもたず、公認の誰の意思をも直接には代表しない、排除された他者を、普遍的な開放性を有する社会の全体性と妥協なく同一視してしまうこと、これが、以上の考察から暗示される、来たるべき民主主義の基本的な構想である。これは、すべての意思の平均的な集計という、通常の意味での民主主義のまったくの否定である。しかし、他方で、これは、民主主義の本義への回帰とも解釈できる。というのも、民主主義democracyとは、つまり都市国家の階層秩序の中に位置づけをもたない排除された民衆の支配のことに他ならないからである。

冒頭で、「われわれ」と「彼ら」の対立が「われわれ」自身に内在しているという感覚、「われわれ」の中に不気味で受け入れがたい他者が深く浸透しているのではないかという半ば妄想的な感覚こそが、自由で開かれた社会の構想にとって、最大の困難となって立ちはだかっている、と論じた。しかし、逆に、この感覚を、希望の兆候と解釈しなおすこともできるのではないだろうか。「われわれ」の共同体の中に侵入している「他者」こそ、今述べた、逆接的な民主主義の開放性をもたらす「排除された他者」以外のなにものでもないからだ。つまり、その「他者」を触媒にしてこそ、逆に、むしろ、普遍的な開放性がもたらされるからである。最後に、今日における最大の社会問題、地球環境問題に即して、まさに、開放性のよりどころとなる、「排除された他者」とは何かを考えておこう。それは、たとえば、「第三世界」の貧民や農民だろう。さらに、何よりも、それは、声なき未来世代、来たるべき他者ではないか。未だ生まれざる他者の要求を、妥協することなく、社会の全体性を代表する普遍的な意思と見なすこと、これが、エコロジカルな破局へ対抗する民主主義だ。

大規模組織の戦略と経営システム

ソニーと日立の経営への危惧は、プレジデント誌でも私はすでにかなり前から書いている。日立について書いたのは、一九九九年一月に総合電機三社(日立、東芝、三菱)の試練について書いたときだった。三社の社長に連続インタビューをした後、総合電機には日本の大企業の多くが抱える本質的問題が集約的に出ていると思った。総合であることが悪いのではなく、大規模組織の経営のための戦略と経営システムに問題があるのだと考えた。三社の中でも、日立が一番問題をはらんでいる、と私は書いた。三人の社長の現状の自己診断を聞いた印象も、「厳しさ」「経営の深刻さへの肉迫度」という点から見ると、当時の日立の社長がもっとも食い足りなかった。

ソニーについて初めて書いたのは、ブロードバンド時代のソニーの戦略として、eソニーというビジョンがさかんに喧伝されていた二〇〇〇年六月のことだった。「ビジネススクール流知的武装講座」というコラムで、私は「ソニーのeビジネスとして注目を集めている多くのネットサービス事業は、成功の確率が低い」とはっきり書いた。理由は、ネットサービスは「線」の商売で単体のハードの「点」だけをやっていたソニーにネット事業の本質的優位性はない、と思ったからである。それに、インターネットを使ってeソニーでの「囲い込み」を狙う戦略は、インターネットの本質である開放性という原理と矛盾するから、機能しないと考えたのである。

大規模組織の戦略と経営システムという問題は、その後も日立とソニーを悩ませ続けたようだ。日立は、広がってしまった戦線の中での選択と集中に大いに悩んだ。また、工場単位のような分権組織の伝統があるだけに、妙な自主独立意識と組織の末端と本社をつなぐ神経システムの麻痺に悩んだと思われる。しかし、悩みはわかるが、集中の決断の一つがIBMが売りたがっていたハードディスク事業だという戦略には、あまり説得性はなかった。ソニーの戦略は、ソフトとハードの融合というおそらく機能しない戦略に固執したのが痛かった。その上、ゲームで成功してしまったために、過度にゲームの影響力が全社戦略に及び始め、それがソニー全体の戦略を歪めたようだ。

さらに、経営システムという点では、横文字とカタカナが乱発される意味のわかりにくい組織改革がしばしば行われるようになった。社内の人々の混乱は容易に想像できる。そうした論理的な堅牢さのない経営組織の案を実行してしまえば、失敗する確率は高いはずである。当時、私はキャノンの中興の祖と言われた賀来さんの言葉をしきりに思い出していた。氏がどこかでこう言っていたのである。「机の上で論理が通っていると思う計画でも、現実に実行するとさまざまに前提条件とは違う現象が起きて、そのままでは失敗することが多い。机の上ですら論理が通っていない計画は、間違いなく現場では失敗する」

もちろん私は、ソニーや日立の経営が簡単なのにそれに失敗した、とあげつらっているのではない。じつはソニーや日立に代表されるような、グローバルに事業活動が広がり、かつ多様な事業を抱えた大規模複雑組織の経営は、非常にむつかしい。先に書いたように、全社戦略と全社の経営システムをどのように作るか、という巨大な難問がトップマネジメントには課せられるのである。しかし、その問題のむつかしさにきちんと立ち向かえるだけの、徹底的に考え抜かれた戦略作りや経営システム作りが行われたのか。それが私には疑問だった。

調停の申し立て

損害賠償は、彼らにとっては「技術」の問題である。しかし「精神的救済に終始こだわり、示談が成立してもなお精神的救済がえられない」被害者というのは「稀にみられる」タイプでしかなかったり、「いつまで至父通事故を思い出しながら生きるより、示談が成立して賠償金をうけとったら、一目も早く事故のことは忘れたいと思うのが被害者の人情」だとするような弁護士の文章を読むと、彼らと子供を失った親である私だちとの間の心の溝は、到底埋められないほど広くかつ深いものだということを悟らざるをえない。加害者の代理人である弁護士の提示した最初の賠償案を私たちが拒んだことはすでに述べたとおりだが、その後、舞台は簡易裁判所での調停、さらに地裁への民事訴訟へと移ることになった。ここでは、その過程で私たちがどのような経験をしたかをもとにして、交通事故の賠償交渉が司法の手を借りて進められた場合の問題を考える。

加害者の代理人であるA弁護士との二度目の交渉で、彼が提出した「計算書」の受入れを拒否し再考を促して別れてから、私たちは彼の返答を待っていた。ところが、それから一ヵ月後に私たちの手許に届いたのは、A氏からの返答ではなく、神戸簡易裁判所からの呼出状だった。加害者との直接交渉が行き詰まったとき、簡易裁判所に調停を申し立てるという方法のあることを、私たちが知らなかったわけではない。しかし、提示された加害者側の案を拒否したとはいえ、それは最初のものだったし。また面と向かって話し合ったのはわずか二度だけだったから交渉が行き詰まったという意識は当時の私たちには全くなかった。一人の人間の生命の決着が、そう簡単につくはずがないと思っていたからである。

それなのに突然簡易裁判所から呼出状が届き。そこには「正当な理由なく出頭しないときは金五万円以下の過料に処せられることがあります」と書かれていたのだから、私たちは驚いた。まして私たちは簡易裁判所に調停を申し立てるのは被害者の方であると思いこんでおり、加害者から訴えられるということは全く予想していなかった。もちろん調停の申し立てを行うことは、被害者だけではなく加害者もできる。しかし加害者が早い段階でなぜこのような手段をとったのかは、正直のところ私には今でも分からない。通常の示談交渉は、わずか二回の交渉で合意に達しなかったという私たちのケースを異常なものだとするほど、スムーズに行われているのだろうか。他の人々はそれほど簡単に人間の生命に決着をつけているのだろうか。それとも、私たちが加害者に途方もない要求をしたのだろうか。

しかし私たちは、相手方の「計算書」を受け入れることを拒みはしたが、それに代わる具体的な金額を要求したわけではない。私たちは事故で生命を失った娘を一人の人間として処遇することを求め、娘が女性だからという理由だけで男性と差別されるべきではないと主張したことは確かだが、そのような「理念」にこだわる私たちの態度を弁護士は嫌ったからだろうか。金額を決めることだけを賠償交渉の目的だとする立場からすれば、「理念」なんぞは交渉の早急な解決を妨げるだけだからである。いずれにしろ、その理由は当時はもちろん、今でも定かではない。ここで「調停」について簡単に説明しておこう。調停は「民事調停法」とそれに基づく「民事調停規則」とに則って行われるのだが、それがどういうものであるかを説明するためには、簡易裁判所からの呼出状に同封されていた「調停について」という文書を借りるのが手っ取り早い方法だろう。