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リベラリズムの限界

ここで問題となるのか、近代啓蒙主義に基づくリベラリズムにおいて、「宗教」がどのように位置付けられてきたのかという点である。近代社会は、いかにして宗教間の対立を回避し、互いの宗教的価値の相違を認め合うのかということに苦心してきた。このような問題に対して、世界を席巻した近代リベラリズムは、セキュラリズム(世俗主義)と相対主義という解決法を用意してきた。まず、リベラリスト達は、宗教間の対立を避けるために、宗教を「私の領域」に閉じ込め、「公の領域」にはそれを持ち込まないというセキュラリズムを普遍化しようとした。ここでは、宗教はあくまでも個人の内面の問題を解決する手段的道具とみなされ、それを追求するのは「私の領域」にのみ限定化された。そして、行政機構はもちろんのこと、市民社会の領域からも、宗教的価値は締め出された。つまり、宗教を「私の領域」に封じ込めることによって、「公の領域」からそれを排除し、そのことを通じて宗教的対立を回避しようとしたのである。

そもそも、近代啓蒙主義においては、理性によって世界を対象化し、それを正確に認識した上で、いかにコントロールするかというこ恚に重点かおかれてきた。そのため、「公の領域」においては合理性の追求か最優先され、「私の存在とは何なのか」という存在論的問いやそこから生ずる信仰の問題は、周縁的なものとされた。また、信仰の領域は、「非合理的」なるものとされたため、「合理性」の支配する「公の領域」においては、そもそもその対象外とされた。「公の領域」において、存在論的問いを追求することは、完全に放棄されたのである。その結果、「公の領域」は、機械的人間か計量化・数値化された利益を効率的に追い求めるシステム社会か覆い尽くした。マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、このような「脱呪術化」され、目的合理性のみが追求されるような官僚的近代社会を「鉄の檻」と表現し、その閉塞的な社会のあり方に対して強い警笛を鳴らした。宗教は本来、個々人の内面的な問題だけでなく、広く社会や政治についての包括的指針を与えるものである。

それが、近代啓蒙主義においては「公」「私」という二分法によって裁断され、一方の「私の領域」に閉じ込められた。これによって、「公の領域」は、宗教に基づいた価値の指針やモラルか排除された非宗教的領域へと変貌していったのである。さきで詳しく述べたように、このような近代啓蒙主義に基づく植民地支配をイギリスかインドにおいて行ない、さらに、そこで成立した植民地的構造を独立後のインド社会が継承していったために、「ウチ」と「ソト」の分断が構造化し、「公の領域」における「倫理の崩壊」現象か深刻化した。現代インドにおける宗教復興現象は、まさにこのような近代啓蒙主義によって植え付けられた近代システムに対する、根源的な批判を内包した思想的潮流として捉えるべきものである。また、近代啓蒙主義においては、「私の領域」に限定化された宗教に対して、相対主義の立場を推し進めてきた。他宗教との「分かち難い差異」を前提とした上で、お互いの宗教を認め合う、というものである。これは、他宗教に対する寛容な姿勢を示す一方で、「分かち難い差異」を他宗教との間に設定することによって、宗教間の価値の断絶を宣言することになった。この相対主義は、絶対的差異を有した他宗教を想定し、それとの差異を見出すことによって「自分は○○教徒とは違う**教徒である」という認識を形成するアイデンティティ装置へと転化しやすい。

インドにおいては、このような相対主義を基にして施行されたイギリスの分割統治か、宗教間の差異を顕在化させ、インド人の間の宗教的アイデンティティーポリティクスを強化していった。ヒンドゥー・ナショナリズムは、まさにこのような近代啓蒙主義に基礎付けられた相対主義によって、生み出されていったものといっても過言ではない。我々が、今、まさに行なわなければならないことは、近代啓蒙主義か立脚してきた「設計主義的合理主義」(ハイエク)に対して根源的な懐疑のまなざしを向け、それを支えてきた人間の理性に対する過信を捨て去ることである。近代という時代は、歴史上、人間が最も人間の理性を過信した時代と言っても過言ではない。我々は、理性的人間か世界を「正確に」認識し、それをコントロールすることかできるという幻想・妄想を放棄しなければならない。そこで、やはり注目しなければならないのは、世界中で勃興してきている宗教復興の潮流である。この宗教復興の潮流は、上記のような近代啓蒙主義に対する根源的な批判を内包している。しかし、我々はこのような宗教復興の潮流を、「原理主義」という安直なレベル貼りをすることによって、他者化しようとしている側面か強い。確かに、現代の世界的な宗教復興の動きには多くの問題が付きまとう。

先鋭化した宗教復興運動か多くの暴力を生み出し、犠牲者が生まれつづけている。しかし、だからといって、このような宗教復興の潮流を、リベラリズムの立場から一方的に批判し、彼らの主張を足蹴にするべきではない。我々は、このような宗教復興運動の発する重要なメッセージに真摯に耳を傾け、そこから、新たな時代を切り開く道を模索していかなければならない。現代インドは、「ダルマ」の概念をじっくりと見つめ直すことによって、現在、直面している近代の諸問題を乗り越える道を探ることかできると期待される。ただし、この「ダルマ」が現代インド社会において、即座に近代リベラリズムに取って代わるものとして機能するとは考えがたい。また、「ダルマ」の立場から、近代リベラリズムを全否定すべきでもない。民族的マイノリティーや女性、障害者などの社会的弱者に対する権利の保護など、近代リベラリズムか格闘し、その中で築き上げてきた価値の体系には、今後も有益なものか多くある。

ここで、我々か模索しなければならないことは、現代インドにおいて、この「ダルマ」の概念を基に、近代リベラリズムやデモクラシーの体系を新たなものへと組替えて行くことである。近代においては、信仰は内面的な問題のみを解決する手段として認識されてきたか、この「ダルマ」というものは、日常生活の諸行為にはじまり、地域共同体や市民社会における人間関係、さらには政治や経済の領域における諸問題などに対して全体的な指針を与える概念である。しかし、このような「ダルマ」の思想は、前述のように、イギリスの植民地統治と独立後のインド政府が基軸にしたセキュラリズムによって、その包括性を分断された。現代インドは、このような分断された「ダルマ」の包括性を回復し、「ダルマ」の視点から、近代リベラリズムの抱え込んだ問題に修正を加えていくことか望まれる。そして、このような「ダルマ」の復興という問題は、何もインド社会だけに限られた問題ではない。冷戦崩壊以降、世界各地において急速に拡大化している宗教復興の流れは、インドのこのような問題と軌を一にするものである。